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ポール・セザンヌの「自然と平行する一つの調和」とはいったい何か?


不完全さが生んだ独自の芸術的境地

「近代絵画の父」とも称されるポール・セザンヌ。彼は決して天才ではなく、優等生でもなかった。一生を通じて愛していたのは、近代的なものではない。幼い頃から鑑賞し続けたニコラ・プッサンをはじめバロックや古典主義の絵画だった。ところが彼は偉大な先達のように精密なデッサン等に基づく長年にわたる職人的な修行をおこなっておらず、新たな古典主義を代表する画家になるための資質に欠けていた。英国の美術批評家ロジャー・フライは「彼は完璧な画家ではない」と断言する。だがそれゆえにこれまで多くの偉大な画家たちがたどった王道ではなく、だれも歩まぬ道を進み、独自の芸術観を手に入れることができた。


ロジャー・フライの著書「セザンヌ論 その発展と研究」には、いくつもの興味深い指摘がなされている。一つ目は「彼は習得した知識を敢えて信用しない」こと。セザンヌもきっと愛していたであろうレオナルド・ダ・ヴィンチも同様の内容のことを語っている。ダ・ヴィンチの時代でも医学的知識はある程度蓄積されており、人間の筋肉の動き等は解明されていた。それでも彼は、医学的目的ではなく、自らの目で筋肉を観察するために人体解剖を何度もおこなったという。セザンヌは過去の絵画の研究をかなりしているが、セザンヌがセザンヌたり得たのは、習得した知識にこだわらなくなった後のことだ。知識ではなく、自分の感覚を全面的に信じるようになって、芸術家として未知の領域を体感できるようになった。


もう一つは「凝視の末に生じた確信の命ずる以外のことを、何ひとつしない」。ピエール・ボナールはセザンヌの制作場面に接して非常に驚いている。何度も描かれた有名なサント・ヴィクトワール山に対峙したセザンヌはまず最初は何も描かなかった。ただ山を凝視して、時には休憩をはさみながらも、構図を設定したその場所で彼がすることといえば、ただ山を見つめることだけだった。その後、実際に描き始める段階に入ると、今度は対象を見つめることはほとんどなかったという。明らかにセザンヌのこの姿に影響を受けた発言をボナールは残している。


「対象やモチーフの存在は画家にとって、制作中には極めて邪魔な存在である。絵画の出発点はひとつの理念であるから、もし対象が制作中にそこにあると、直接的な視覚の結果に左右されて、最初の理念を見失ってしまうという危険性が常につきまとう」。 Pierre Bonnard. “Carnet de Bonnard, ”Verve: Revue artistique et littéraire. 5 (Paris: Édition de la Revue Verve, 1947), pp.17-18


エドゥアール・マネの《草上の昼食》は、表象的・視覚的な革命だ。19世紀までの絵画は、視覚、もしくは脳が生み出した視覚的創造物に支配されてきた。第1回印象派展に参加しているように、セザンヌは印象主義の影響を受けている。しかし、それは絵のスタイルではなく、哲学的なものだ。クロード・モネ等の、世界を光や色彩により分割するという思想に触れ、自然とは目の前に広がる現実の世界だけではない別の階層があることをセザンヌは直感した。視覚を重視して描いている点において、印象主義はまだ悟性の世界から抜け出ていないが、その先にある世界の存在は暗示させた。モネは美しい視覚的世界で立ち止まったが、セザンヌは印象主義の奥の扉を開けて、悟性の向こう側へと入っていった。悟性を超越した彼に、芸術的質を高める要素とされる様々な引喩はもはや必要ない。リンゴやサント・ヴィクトワール山があれば、全てを表現できる境地に達したのだ。


絵のモチーフに出会えば、彼はまずその存在と対峙し、凝視する。見つめ続けた結果、彼の中に浮かび上がったものは、もはやわれわれが知る自然界の創造物ではない。セザンヌの意識の中で完全に解体され、再び一貫性を与えられ、再構築される。あとはこのイメージを具体化するだけだ。これがセザンヌ絵画の真髄ではないか。これらの作品はもとのリンゴやサント・ヴィクトワール山ではなく、セザンヌが創造者となって再構築した自然である。そしてこのセザンヌの自然は、われわれが知る自然の姿と完全に調和する。「芸術は自然と平行する一つの調和である」とは、このことを指す。永遠不変なものは、自然界には存在しない。だからこそ、同じモチーフを何度描いても、描き切ることはできない。移りゆく自然を凝視すれば、それは明らかだ。


視覚や悟性、次元からも解放されれば、それはもはや芸術の神が遣わした天使と呼ぶしかない。「彼はほとんど音楽家のように、選択された色彩の調性の中で抑揚をつけている。彼が自然から受け入れるのは、以前のような精確な微表というよりはむしろ抑揚についての示唆であり、それを自分の音階の進行に従って演奏してゆくのである」とロジャー・フライはこの時点のセザンヌを評する。


彼は自然を描いたのではない。むしろ自然を解体する技を手に入れたのだ。さらに、自然に対立するのではなく、自然と調和する芸術を物質化して再提示した。万物は自然と調和しながら存在し、いつかは崩壊して、また新たな生命としてこの世に現れる。セザンヌはこのサイクルに新たな調和を付け加えた。神以外に自然と平行する調和を生み出せるのは、今のところ真の芸術家以外には考えられない。

参考文献:「セザンヌ論 その発展と研究」ロジャー・フライ。1990年。みすず書房




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映画『セザンヌと過ごした時間』予告編

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